深い霧の中、羊を探す夢を見たことがある。

色のない世界でただ静かに歩いているだけの夢だ。

何故羊を探しているかも分からない、酷く曖昧な夢だったけれど、心の奥底に大切なものが出来たようで、
幼い私は繰り返しその夢をなぞった。

忘れないように目を閉じて、何度も、何度も。


高校生になった今、それを思い出そうとすると、夢の変わりに幼い私の姿が浮かんでくる。
大切にしていた夢ではなく、夢を大切にしていた私の姿が浮かぶ。

それが幸せなことなのかは分からない。

だけど大切な夢を確かに思い出したら、きっとたいしたことない。

そう思うほど年を重ねたことが、少しだけ悲しかった。



足元に白く綺麗な狼が遠慮がちに擦り寄ってきた。
心の空白を見透かしたように、何度も、何度も頭を擦り付けてくる。
ここは何もない真っ白で寂しい世界。

私は狼をたぐり寄せ、その美しい毛並みに顔をうずめた。





おまえは、誰だ





頭の中に声が響く。



「私は……」
答えようとして言葉につまった。

思い出そうとすればするほど、色々な景色が頭の中を通り過ぎ、終いには今立っている自分の姿すら見えなくなってしまった。



突然、ピアノの音が一音鳴った。



記憶のいくつかがストンと落ちていった。



「私は岬…。私の世界は狼と話なんて出来ない。だからこれも、夢」



切ない気持ちを少しでも追い出すように、抱きしめる力を強めた。

狼は嫌がりもせず身を寄せてくれる。

頭と頭がぶつかると、胸に暖かい光が生まれた。
それは暖かいのに、涙がぽろぽろとこぼれた。



「私の心がこんなに空っぽなのは、あなたが寂しいから……?」



狼は答えない。



この広い空間に一人でいることはきっと寂しい。

私が夢から覚めて、学校へ行って、大人になって、その間、狼はこの何もない部屋で目を閉じてじっと過ごすのだろう。

二人で幸せに暮らせるのなら、夢から覚めなくてもいい。


だけど、今、二人でいるのに、心の穴は暖かい光を零しながらも満たされない。


何がいけないのだろう。



来たばかりの私がこんなことを思うのは本当におかしいけれど、狼をその寂しさから救ってあげたかった。

まるで自分自身を重ねるように。



強く抱きしめ過ぎたのだろうか。

狼は体を左右に揺すり緩んだ私の腕からするりと抜けると、小さく何かを呟いて、そのまま姿を消してしまった。




言葉の余韻が完全に消えた頃、何も無かった空間に空がさあっと広がり、私はなすすべもなく落ちていった。








第一章 リコルド







意識がはっきりと戻ったのは丁度自分のマンションと同じ高さまで落ちてきた時だった。  
地面に背を向けながらあたりを見回すと、針葉樹が私に向かって手を伸ばしている。  
必死になって下を覗き見ると、今まで見たことも無い立派な木製のやぐらが暖かな光に囲まれていた。
それとは対照的に、耳に入る情報は絶望の二文字を私に焼き付ける。  

なんで今更目が覚めてしまったんだろう。




人々の悲鳴を身にまとい、私はまるで流星のようにやぐらを突き抜け、そして地面に激突した。




あれだけ騒がしかった音がいっせいに消える。


火の粉の音だけが時間の流れにしたがっていた。






痛く…ない。




平然と私が身を起こすと遠巻きに見ていた人達がまた一歩後ろへ下がった。



「エル……?」

一人がその言葉を口にすると木々が風にあおられたように思い思いの言葉を口にしはじめた。
私を見る目が、一瞬にしてとまどいのものとなった。
それは暗い森の中に叩き込まれたような感覚だった。

視線から逃げるように周囲を見渡す。
ここは山間の村の中心部で、いたるところに花が飾られていた。
人々がまとっている民族衣装を見るに、何かの祭の最中だったみたいだ。
やぐらの姿を思い浮かべて空を仰ぐ。
そしてそのままゆっくりと私の体まで視線を持っていく。
私の体は煤だらけで、火はまだ小さく燃えていた。



「大丈夫ですか…!?」



皆が遠巻きに見る中、一人の少女が私の煤だらけの腕を両手で引っ張り燃えているやぐらの外へ出そうとしてくれた。

その細く白い手が、暗闇から救ってくれる蜘蛛の糸のように見えた。


「ユズリハ!むやみに近付いてはいかん、早く離れなさい」


少女は遠くから投げかけられる声を振り払うように首をふる。
華奢な体からは想像がつかないほど強い力で私を引き上げ、支えるように抱き込み、必死な声で大人達に抗議した。


「こんなに怖がってるのに、そのままになんて出来ないよ!」


その言葉を聞いて、初めて自分が震えていることに気がついた。
少女が綺麗な服のすそで体中についた煤を丁寧に拭き取ってくれている間も、私の震えは止まらなかった。


少女は私の顔を心配そうに覗き込むと、驚くほど優しく笑って、綺麗な声で歌い始めた。




それまで絶望的に思えた景色が彼女の声で色付いていく。


緊張がほぐれるとそこはのどかでどこか懐かしい故郷のような姿をしていることが分かった。




私はこの歌を知っている。





羊に囲まれた小さな羊飼いが歌っていたような気がする。



どこでそれを聞いたのかと言われるとよく思い出せないけれど、


真っ白な霧を通してみる夕日の色が凄く綺麗だったことは覚えている。



「痛いところはありませんか?」


私はこくりとうなずいた。
少女の肩越しに周りを見ると、遠くに出来た人垣を掻き分けて、毛布とコップを持った少年がこちらに来るのが分かった。
少年は急いで私に毛布をかけ、暖かいコップを差し出してくれた。
コップの暖かさが心に染みて、込み上げる涙を私は必死にこらえた。
少年は私のために微笑んでくれた。
その笑顔が暖かくて、やっと生きた心地を取り戻した。



「とにかくうちに来てもらおう。ここだといつまでも落ち着けない」


少女はうなずいて少年と一緒に私の身を隠しながら人垣の方に向かって歩き出した。  
状況がよく分からず誰も助けてくれない今、私にはこの二人の存在が全てなのだと本能が訴えていた。
見捨てられたくない。
心のどこかから湧き上がる焦りを押さえようと、少女の服をぎゅっと握った。


その時だった。  




空がわっと明るくなる。
あまりのまぶしさに身をかがめて目を守ろうとした。
その光が収まると、今度は花火のような音が続いて鳴り響き、
恐る恐る空を見上げると、そこには色とりどりの大輪の花が咲き乱れていた。

それは花火のような可愛らしいものではなく、今にも火の粉が降り注いできそうな威圧的な火の集まりだった。


じりじりとして、痛い。


あれだけ痛みを感じなかった私に自分が弱い者だと思い出させるような、嫌な火だった。


後ろからがちゃがちゃと金属音が聞こえてきた。

こちらに向かって駆けてくる足音に振り返る間も無く少年と少女が突き飛ばされ、私は左腕を捻り上げられた。

村人達が悲鳴を上げながら仰々しい軍隊に道を開けるように逃げる。
花火の逆光を受け、帽子の国章だけがぎらりと目に焼きついた。



「ケイセツ、大切なエルに乱暴はよしなさい」  


貫禄のある一声で私の左腕が丁寧に下される。
軍隊の奥の方から、この山の中には酷く場違いな裾の長いドレスをまとった女性がこちらにゆっくりと厳かに近付いてきた。
そして強張った私の顔を見て、深々と頭を下げた。


「ご誕生おめでとうございます。お迎えにあがりました」


「ごたんじょう……?」


何を言われているのか理解できず鸚鵡返しをする。
白く穏やかなあの夢とは一転して現実のあまりの酷さに私は意識を保つのがやっとだった。


「ここは見ての通り何もない貧しく小さな村。これでは貴方が不自由してしまうでしょう。
それに比べ、我が国ソンツは国力もあり非常に豊か。先ほどの空に舞う大輪の花々をご覧いただけましたか?
あれが、私達の貴方への誠意なのです」


私は仮面が張り付いたような微笑から逃げるように少年と少女の方を見た。  
それを見たソンツの女王はさっと手をあげ、兵士達に銃を向けさせた。


「辺境の地の民には分からないかしら。これがソンツの文明、積み上げてきた力」

少女は向けられる銃を見て少しひるんだ。
それは銃がどんなものか理解しているわけではなく、ただ、人の命を危める何かだということを察してのことだろう。
少女はしばらく固まった後、怖さを退けるためか、堅く目を閉じて首を横に振った。


「どんなに豊かだって、こんなに怖いことをする国危険です…!行っちゃだめ…」


言葉の途中で女王の手がぴくりと動いた。

血の気が一瞬にして引いた。


「待って!!」


みんな私に注目する。


私は冷や汗をかきながら今にも破裂しそうなほど脈打つ心臓に手を当て周囲を見渡した。


声が正常に出たことをこれほど感謝したことはない。


何も起っていないことが分かると安堵で涙があふれ出た。





「…行きましょう、エル。貴方も座れる籠を用意してあるわ。ここは馬車の通る道も無い山奥でしたから…。
籠に乗ったら暖かいスープも飲みましょう。きっと気に入ると思うわ」





私は女王に手をひかれるまま、少年と少女に背を向け、その村を去った。