ソンツの城から抜け出た時外は吹雪で、数メートル先も見渡せないほど真っ白な世界だったのに、
一瞬だけ顔を覗かせた太陽の光が辺りをオレンジ色に染め上げて、
初めてリコルドに触れられたような気がした。

あれは間違いなく夕日だったのに、私には朝日に見えて、
自分の足で大地に立ったことを祝福されているような気がした。






第二章 リーリエ






「とりあえずここは寒いからさ。あったかいところ行きなよ」


 ソンツ郊外で手配してくれた馬車の馬に手をあてながらキリン君は私達を見上げてそう言った。
その言葉の気軽さが今はなんだか嬉しくて、酷く安心する。


「そうだなー……君が皇太后に言ってたサムトなんてどう?
あそこは中立だし外貨を落とす客には優しいし……あ、これ持ってって」


キリン君は少年に簡易地図と小さな袋、それに綺麗な石のついた髪留めを渡した。
地図を広げる少年に少しかがむよう指で指示をする。


「オレンジのこの印がサンファンの集まるおおよその場所だから、困ったら行くといいよ。
髪留めのこの石が僕のシンボルだから、これ見せたら良くしてくれると思う。
これはリーリエへの投資」


少年が小さな袋をあけると金貨が少し入っていた。
少年は最初ためらっていたけれど、申し訳なさそうにキリン君に頭を下げた。


「この髪留め、他にも必要だと思う時があったら使ってね。
エルと君の存在はきっとリーリエの役に立つよ」


キリン君が念を押すように言う。
少年は複雑そうな顔をしてもう一度頭を下げた。

あの時キリン君がさも事実のように話したリーリエという国は、実在していなかった。
聖地サバハのずっと東に遺跡があるのは本当みたいだけれど、その道のりは死を覚悟しなければならない過酷な場所だという。
キリン君は一度だけそこに辿り着いて、エルについて深く知った。
帰りの道ももちろん危険なので、辿り着いたらそこに定住してしまう人間が多いそうだ。
命からがら帰って来たキリン君は、「文明が発達したらもう一度行きたいかな」と冗談まじりに言っていた。

そんなところに私達がいけるはずもなく、リーリエという国は私と少年と少女の三人で構成されるマイクロステートになった。
まるで子供のおままごとのようだ。
困ったことに、ソンツがリーリエの存在を承認する流れになったので私達は現実でもそれを続けなければいけない。
キリン君が言うには、寄生国家でもいいから国という単位を持っていたほうがいいとのことだった。
私にはよく分からないけれど、キリン君が言うならそうなんだろう。


「キリン君は一緒に行かないの…?」


私が不安そうに聞くとキリン君は困ったように笑った。


「僕はまだちょっとソンツでやることがあるからね。でもそれが終わったら合流するよ。君達、名前教えて?」


キリン君は少年と少女の方を見てそう言った。


「僕がハル。これがユズリハです」


「ハルとユズリハ…ね。僕はキリン。呼び捨てでいいよ。
もしサムトから離れるようなことがあったり、目的地を変えたりしたら隣国のサンファンに伝えてよ。
探すからさ」


ハル君は言葉を出さずにうなずく。
業者が手綱を一振りすると、馬が走る準備をしだした。


「それじゃあ、ねえちゃんのことよろしくね」


大きく手を振るキリン君の姿がどんどん小さくなって、やがて見えなくなった。

私はキリン君を置き去りにしたままソンツの国境を越える。
キリン君のやることってなんだろう。あの女王のところに戻るんだろうか。大丈夫なんだろうか。


「おねえさん」


灰色の景色に似合わない明るい声が私を呼んだ。
隣をみるとユズリハちゃんがきらきらした目で私の顔を見ていた。


「おねえさんはなんて名前なんですか?」


聞かれて私は「岬……」と小さく答えた。


「ミサキ…綺麗な名前ですね!私のことはユズリハって呼んで下さい。
これからよろしくお願いします、ミサキさん」


差し出された手をおずおずと掴むとユズリハは力いっぱい手を振って嬉しそうに笑った。
この子は初めて会った時から私のことをエルじゃなく、私としてかばってくれた。
それは哀れみではなく、この子が純真だったからなのだろう。
そうじゃなきゃ、ただ一度会っただけの人間のために他国の城へ侵入するだなんて、考えられない。

私は目の前にいるハル君に目を移した。
ハル君はキリン君の簡易地図を広げて色々と考えているようだった。


「あの」


私が声をかけるとハル君はすぐに顔をあげてくれた。


「心配しないで下さい。サンファンに比べたら全然力及びませんが、僕も旅はしたことありますから」


そう言って穏やかに微笑んでくれる。私は申し訳なさで胸がいっぱいになった。


「ご両親はこのこと知っているの?」


私が恐る恐るそう聞くとユズリハが横から「問題ないです」と明るく言った。


「私達二人で暮らしてたんです。両親は、私が生まれてすぐ他界したそうで」

「ミサキさん」


ハル君が私の目を真っ直ぐ見て名前を呼んだ。
私はなんだかいさめられているように感じて、無意識に姿勢を正した。


「僕達はもう村には帰りません。それよりも僕はエルである貴方が平穏に暮らせる国を探したいんです」
「私も!これから色んな国にいけるなんて、凄く嬉しい!ミサキさん、私ね、山を降りたこと一度もなかったんです。
あの村はみんな優しかったけど、山を越えて商売をするのも、外の人と話すのも、みんな男の人の役目だったから」


そう言ってユズリハは馬車の窓を勢いよく開けて私の手を引いた。


「見てください、この景色!この冷たい風!凄く楽しくなってきませんか?」


あれだけ鬱々とした雪国の景色がユズリハの目を通して明るくなる。ああ、いいなと私は目を細めた。







それから私達は馬車を乗り継いで国の境目を何度も通り過ぎた。
ソンツから離れるにつれ、雪が降らなくなったり、少しだけ暖かい砂漠の地域を通ったり、草原を通ったり、
滅多に馬車からは降りなかったけれど、私達は凄く穏やかにサムトへ向かっていた。
途中で出会うサンファンの話だと、リコルドは緊迫した状態の国が多く、この時勢に旅をするなんて、いつ危険な目にあってもおかしくないそうだ。
私達がそんな目にあわずにいられるのは、ハル君が簡易地図を広げながら安全な道をそれこそ縫うように選んでくれているからだった。
ハル君はユズリハと同じ年月をあの村で過ごしているはずなのに、戸惑う様子が何も感じられなかった。
ハル君がサンファンと話し込んでいる時、
私とユズリハは邪魔にならないように少し遠くからそれを見守っていることが多かった。


「あの村の男の子はみんな山を越えてサンファンみたく国をまたいで商売しているの?」


私がそう聞くと、ユズリハは少し頭を悩ませてこう言った。


「私達がいた村は外があまり好きではありませんでした。
外の国の話も聞かなかったし、山を越えても物のやり取りは定期的にくるサンファンとしかやっていなかったんじゃないかな」


「それだけで生活は大丈夫だったの?」


キリン君の口ぶりではサンファンの間でもあの村はそんなに知られていないようだった。
色々な国のサンファンを見る限り、その規模は動きやすいように少人数で、一組のサンファンとのやり取りだけであの村が支えられるとは思えなかった。
けれどユズリハは「それが大丈夫なんです」と笑って言った。


「私達、基本は自給自足なんですよ。山に入れば食料は沢山ありますし、確かに不作の年もありますが、贅沢を言わなければ十分暮らせる村でした。
サンファンとのやりとりは、暮らしを豊かにしましたが、なくなっても別に困ることはないんだそうです」


あのソンツの領地とは思えないほどの恵まれ方だ。
キリン君が冗談でもエルに選ばれる可能性のある村として名前を上げた理由がなんとなく分かった。


「ユズリハは何をして暮らしていたの?」

「沢山羊を飼っていました。羊の世話をして、糸を紡いで、織物の手伝いをしたり…手があいたらハルのところに行って工芸品を作る手伝いしたり。
私は不器用なので細かい装飾よりも木を切ったりする方が好きなんです。
そういうとハルはいっつも困った顔で笑うんですけど」


私達は声を潜めて笑った。


「ハルが世界について詳しいのは、村にくる前旅をしていたからだと思います」
「村にくる前……?」


そう言えば私はハル君自身から旅はしたことあると聞いていた。
私は当たり前のように二人は兄妹か生まれた時からの幼馴染と決め付けていたけれど、どうやら違うようだ。
ハル君は小さい頃に旅をして、一人であの村にやってきた…ということだろうか。
それでご両親のいない小さなユズリハと一緒に暮らし始め……?


おかしい。


二人の関係が意外に複雑だと新しいことを聞くたびに思った。


「すみません、おまたせしました」


私がユズリハに質問しようと口を開いた時、丁度ハル君が戻ってきた。
簡易地図を広げ現在地を指で示してこう言った。


「僕達がいるここからサムトまでは最短距離で行っても大丈夫だそうです。うまくいけば三日で到着します。ただ……」


ハル君が困った表情で口ごもる。
ユズリハが先をうながすとハル君は私の顔を複雑な表情で見上げた。


「サムトは今エルのことで少しもめているそうなんです」


「エルのことで?」


私は目をまるくする。


「それが……ミサキさんが僕達の村に落ちてきた日、
シャハル側に位置するゲズルという小国にも赤ん坊のエルが落ちてきたそうです」


私とユズリハは息を呑んだ。


「赤ちゃん……可哀想…痛くなかったかな」


ユズリハが自分のことのようにつぶやいた。


「ゲズルはシャハル側に位置していますが、ソンツの同盟国です。
昔植民地として分断され、シャハルとソンツに取り合われ、周囲の国との国交を絶たれたまま独立した国です。
エルが自国にきてしまったため、どちらについても戦争を回避することが出来ない。
悩みに悩んだ結果、情報が漏洩しないうちに赤ん坊を処分することにしたそうです」


「そんな……」


「ところが、それを聞いたエルの乳母はエルを抱いて国外へ逃亡し、行き着いた先が」


「サムト……」


ユズリハがつぶやくとハル君がこくりとうなずく。
私はたまらず口をはさんだ。


「サムトは中立で外国の人間にもそこまで敵意を出さないってキリン君言ってたよね……
やっぱりエルだとだめなのかな」


ハル君は難しい顔をして手を口元にあてた。


「今回なぜもめているかというと、その女性がエルを保護して欲しいと公式な場でお願いしたからです。
名乗らずひっそりと身を隠す分にはいい。
もし他国に見つかってしまっても国はかくまったことにはならないし、捕まえて献上すれば対等な同盟関係も結べる。
大国なら喜んで保護し、自国のエルにするんですけど、小国、それも中立国がエルを保護するということは、
大国と争う意思表示とみなされ、存亡の危機に陥ってしまうんです」


私は自分の行動がどれだけ周囲に影響するか見せ付けられたようで、下を向いたまま何も話せなくなっていた。
ハル君も気まずそうに目をふせる。

そんな私達をよそにユズリハは何かを思いついたようで、「そうだ」と明るく手を打った。


「その赤ちゃんもリーリエ名義で引き取っちゃえばいいんじゃないかな!」


「ええ!?」


私とハル君が同時に声をあげる。ユズリハは得意そうにはにかんだ。
確かに、赤ん坊が国の間で取引されるのは可哀想だし、最悪処分ということを考えれば私達のところに来た方がいい。
私は困った顔でハル君を見た。ハル君もとても困った顔をしている。

きっと私の時もこんな顔をしたんだろう。


「ユズ。女の人がなんでサムトに保護して欲しいと申し出たか分かる?」


「赤ちゃんを死なせたくなかったから?」

「そう。中立国で比較的豊かな国の城でなんの危険もなく育ててあげて欲しかったからだ。
僕達はその女の人が望むラインに達してない。僕達はまだ定住出来るところもないんだ。分かる?」


「……わかる」


「サムトが保留にしている間僕達がエルを横取りしたら世界中にリーリエのことが知れ渡る。
ソンツのエルをさらってもまだリーリエの名前が知れていないのは、ソンツにとって不利益だから。
僕達は今ソンツによって生かされている状態なんだ。名前を知られたら同盟をもちかける国、敵対する国、沢山あると思う。
僕達にはまだ敵対する準備も同盟を結ぶ準備も何も出来てない。

それに、今は僕とユズだけじゃない。ミサキさんもいる。
前みたく無茶はできないんだ」


ユズリハは叱られた子供のように納得のいかないようすでうつむいた。


「でも、その赤ちゃんは一回処分されそうになったんだよね。もめてるってことは、今回もその可能性があるってことだよね。
大人の嫌な気持ちを一身に受けてるんだよね。
そんなの可哀想だよ……ミサキさんはどう思いますか?」


私に話がふられる。


途端、私の目から無数の涙がこぼれた。


「大丈夫ですか!?」


ユズリハが私の背中を一生懸命さすってくれる。
私も自分の中で何が起きたのか分からなかった。

ハル君は私の様子を心配そうに見たあと、何かを考えるように口に手をあてうつむいては目をふせたり閉じたりしていた。


「……あまりやりたくはありませんが、僕達が出来ることが二つあります」


「一つは、サムトの決定を待ち、公表された瞬間に交渉しに行くこと。
二つ目はミサキさん一人でエルとして赤ん坊のエルを迎えにいくこと」


「私ひとり……」


「何度も言いますが、サムトは中立国です。出来ればエルを所持したくない。
どこにも属していないエルが迎えにきたというなら、恐らく何もなく引き渡してくれるでしょう。
ですが、これは極力避けたい方法です。ミサキさんがエルだと世界中に知られれば、僕達が動くたびに問題が起こると思います」


私達はお互いの顔を見て黙る。しばらくすると、流れを変えるようにユズリハが手を上げた。


「とりあえずさ、サムトに行こうよ。ミサキさんにはサンファンの所で待ってもらって、まずは私とハルでお願いしにいってみよう」


こうなるとユズリハはどうにもならないのだと、後でハル君から教えてもらった。