*第二話 現実*




それから三日、私達は馬車を乗り継いでサムトに辿り着いた。
入国する際検問が厳しくて入口で待機させられている人がぱらぱらといた。
私達がすんなりと入国できたのは、やはりキリン君がハル君に渡した髪留めの力だった。


「サンファンって凄いんだね!証ひとつで国中を旅出来るの?」


ユズリハが目を輝かせながらそう尋ねると、ハル君は髪留めから目を離し、穏やかに笑った。


「サンファンは色々な物を遠い地から運んできてくれるからね。サンファンがいなければ困る国も沢山あるんだ。
逆に、自国の情報漏洩を恐れたり、外からの情報を遮断するためにサンファンを受け入れない国もある。
僕達がサンファンとして入れるなら、まだサムトは大丈夫なのかもね」
ハル君の言葉に私は胸を撫で下ろす。
もめているというから街中が物騒なことになっているかと思っていたけれど、明るく、活気に溢れ、どこかでもめている様子なんて見られなかった。


「わあ、これ可愛いです!ミサキさんどうですか?」


ユズリハが露店に並べられたネックレスを両手で持って見せる。
ユズリハの村で見た独特の模様ではなく、シンプルな飾りだった。


「ユズ、寄り道してたらお願いしにいけなくなるよ」


露店に夢中なユズリハにハル君が釘をさす。
私達はなるべく止まらないよう、道の真中を歩いて距離をとった。
よく見えなくなった露店の商品は、太陽の光を浴びて思い思いにキラキラと輝いていたので、城までの長い道は華やかで明るいものだった。

早足に歩いても目に止まる物は多々ある。
洗練された銀細工があるかと思えば木製の置物があったりと同じ物を置いている店は一つたりとも存在しない。
サムトは気候もよく中立国、その上位置的にも大陸の中心にあるためサンファンの出入りが激しいのだとハル君が言った。
この露店通りはこの大陸全体が持つ文化の縮図のようだった。

ハル君が手続きを済ませる間、私達は門の下で待っているように指示された。
私とユズリハは遠くなった露店通りの屋根の模様を指さしては何に見えるか話したり、歩いている人達が着ている様々な民族衣装を見てどんな国から来ている人か考えたりした。

そうしている間にだいぶ時間が経ったのだろう。
影が伸びてきたと思ったら、露店は次々に店を閉めはじめた。
歩く人もまばらになりはじめ、まだ日は高いのにと二人で顔を合わせていると、広く空いた道のど真ん中に机や椅子を持ち寄って露店のみんなでティータイムをしはじめた。
その自由さに私達は声を潜めて笑った。


「この街に住む人はきっと愛国心が強いんだろうなあ」
「なんで?」


「だって、毎日こんなに世界の切れ端を見てしまったら、世界を旅したくなっちゃうじゃないですか」


ユズリハは笑って言った。私は改めて露店通りを見渡した。

明るく活気にあふれ、笑い声が絶えない。
今まで見てきた国の中で一番恵まれていて、人の息吹を感じられた。安心した。
ゲズルの乳母がこの国を選んだ理由が分かった気がした。


本当は、赤ん坊を正式に受け入れて欲しい。
この国に拒絶されてしまったら、全てに拒絶されたように思えてしまう。
私は赤ん坊に自分を重ねて、誰よりもその幸せを願っていた。


「大丈夫ですよ」


ユズリハが私の手を握って言った。


「大丈夫です。ミサキさんも、赤ちゃんも、不幸になんて絶対させません!」


あったかい。


私は落ちた場所がユズリハの村で本当に良かったと思った。


「あ、ハルが戻ってきたみたいです。ちょっと行ってきますね」
そう言ってユズリハは紙を見て難しい顔をしているハル君のもとへかけて行った。
ユズリハが声をかけるとハル君は手馴れた様子で状況を説明しているようだった。
あの二人の関係を未だ把握出来ていないのだけれど、恐らく人生の半分以上を同じ空間で過ごしただけの絆が絶えず見えていた。
そんな二人を見る度に何かを思い出しそうになる。
多分、私にも大切な誰かが、いた。
だけど、リコルドに来てからは色々なことがだんだんと思い出せなくなっている。
夢の中で現実を思い出せなくなっている、丁度そんな感じだ。
今の私にはこの世界が現実過ぎて、どちらが現実でどちらが夢かさえ分からない。


そんな私を唯一正してくれるのは、あの白い狼の存在だった。


そんなことを考えながらぼんやりと二人を見ていると、ユズリハが急にこちらを指差した。
ハル君に私がどこにいるか聞かれたのだろう。
私は立ち上がって二人のもとへ駆け寄ろうとした。



瞬間、ハル君の表情が凍った。



こちらに向かって一気に走ってくるかと思いきや、驚くほど鋭い声でこう叫んだ。


「ミサキさん、ユズのところまで走って!早く!」

私は状況が飲み込めず、立ち止まって周囲を見渡してしまった。
ハル君は急いで私の手を取ると全力で走るように誘導してくれた。

けれどすぐに手は離れた。

強い衝撃と共にハル君の小さな体が地面へ叩きつけられた。


「ハル!」

ユズリハが血相を変えてハル君に駆け寄る。
私はハル君を強く蹴り上げたがたいのいい男に布袋を被せられ担ぎ上げられてしまった。


「ユズ、追って!」


咳き込みながら指示を出すハル君の声が徐々に遠のいていく。
いくら暴れてみても布袋が邪魔をして男の速度を下げることすら出来なかった。
身を切るような風と物が崩される音、人々の悲鳴が次々と飛び込んでくる。
男は大胆にも露店通りの人や物を蹴散らして走っているようだった。
賑やかな音が、笑い声が一瞬にして奪われていく。私はそれに深く絶望して暴れる気力もなくしてしまった。


「おい、生きてるか?おい」


男がなおも走りながら私の体を揺さぶる。
私は現状が変わるかもしれないと、反応せずに息を潜めた。
男は何度も揺さぶっては話かけてきたが、返事がないことに呆れ果てた様子で私を地面に投げ下ろし、

大きく舌打ちをした。


「舌噛んで死んだか。鳥以下だな」


私に向かって暴言を吐き容赦なく蹴り上げる。
私は両手を口に当て痛みを必死に耐えた。
この男の目的がなんであろうと、生きていなければ意味が無いだろう。
用の無い死体を担いで逃げるなんて無駄なことはしないはずだ。

しばらくすると男は大きなため息をついてこう言った。


「まあ、このままこいつ担いで走るのも面倒だったし好都合だったか。
迎えの準備を整えてくるからそれまで静かに待ってろよ」


体を強く蹴り上げられる。ばしゃんという音と共に冷たい水の感触がすぐに私の体を包み込んだ。
私は何がなんだか分からなかった。
けれど今までとは違う、本当の死を全身に感じ、頭には恐怖しか残っていなかった。
本能のまま手足をばたつかせ布袋をはずそうとするも、布の隙間から水はどんどん浸入し音をたてて急速に空気が逃げていく。
布袋がいびつにたゆみ、私の口からも空気が逃げていった。
けれどいつまでたっても気が遠くなることはない。
息の出来ない苦しさは時間の経過と共に激しくなり私はただこの苦しみから逃れたいと強く願った。
死ぬことで開放されるなら、早くその時がきて欲しかった。


これが夢だとは、思えなかった。


手足に力が入らなくなりただ意識が飛ぶことだけを願い始めた頃、布袋ごと抱え込まれ上へ上へと運ばれるような感触を覚えた。
私はこの苦しさから解放してくれるのなら先ほどの男でも構わなかった。
いっそ刃物で一突きされた方が救われると心から思った。


驚くほど静かに陸へ上げられ布袋を解かれると水が一気に外へ流れ出る音を聞いた。
空気が皮膚に触れているのに体の中へは入ってこない、苦しい。
私はされるがままに布袋から外に出され、仰向けにされあごを空へ向けさせられた。
すると一気に肺が動き出し飲み込んだ水を全て吐き出そうと激しくむせた。
水を再度飲み込まないよう顔を横に向けさせられる。
私は肺が破れるかと思うほど大きくむせ、何度も水を吐き出した。あれだけ求めた空気が痛かった。


「意識はあるな」


呼びかけられた声は低く落ちついていた。私はなおもむせながら首を何度も縦にふった。
男は水で重たくなったコートを私から引き剥がし、布で軽く拭いたあと、薄く大きな布で私を包み、そのまま持ち上げてこう言った。


「少しだけ辛抱して欲しい。悪いようにはしない」


私は滲んだ視界で男を見上げた。
濡れた黒髪から覗く深いまなざしに安堵し、私は願ってやまなかった意識を今になって手放すことが出来た。










 私は白い空間にいた。



濡れたはずの髪も服もすっかりもとの通りになっている。

苦しさも喉のつかえも無い。



私は深く息を吸い、目の前にたたずむ狼を見つめた。



「私は死んだの?あれは、夢?」


狼はただ静かに私の目を見つめる。
やっと姿を現したというのに、話す気はないらしい。


「夢で死んだらどうなるの?リコルドは夢なの?現実はどこなの?現実は、なに?」


様々な不安に押しつぶされ私は床に座り込む。
この空間さえも私にとっては夢のはずなのに、私の真実は全てここになければならないような気がした。


狼は座り込む私の耳元に顔を寄せ、静かにこう聞いてきた。






 お前は、誰だ






 この一言で私の記憶はいつでも現実へ向けられた。  


でも私にはもうそれだけじゃ足りなかった。



「私はもうあんな怖い思い嫌だ。現実に戻りたい。どうやったらこの夢は覚めるの?」  


私が涙を流すと、狼はとても悲しそうな顔をした。






 逃げては、いけない






私ははじかれるように狼につかみかかった。 「逃げるって何!?違う、私の世界は、ここじゃない!!」  


涙が次々に溢れてくる。
狼は黙って私に体重を預けた。




 狼はこの真実の部屋から出られない。リコルドの行く末をこの部屋で見届ける義務を負わされている。そんな気がした。


「あなたにとって、リコルドは、なに?」  


私が聞くと、狼は大きく息を吸った。





 理想郷





「理想……郷」





私の呟きを拾うことなく狼は姿を消した。