*第四話 羊飼いの歌*
「どうしよう、ミサキさんが…ミサキさんが」
本気を出したユズの速さに僕は到底追いつけない。
そのユズがあの男に追いつけなかった理由は、男が蹴散らした障害物に道を阻まれたからだろう。
もし男に逃げ切られても打つ手はあった。
さらってまで欲したエルをみすみす殺すようなことはしないだろうし、エルを手にした国はなんらかの誇示をするはずだ。
ソンツはそれを黙っていないだろうし、最悪また二人で迎えにいけばいい。
そんなのんきなことを考えていたから、びしょ濡れのユズが泣きはらしているのを見て全身の血の気が引いた。
僕が駆け寄るとユズはすぐにすがりついてきた。
僕はユズの肩越しに沼から引き上げられたであろう布袋と、ミサキさんのコートを目の当たりにした。
思わずユズを抱きしめる力が強くなる。
ユズも驚くほど冷たかった。
「沼の中、何度も潜って探したんだけど、いくら探しても、見つからなくて」
ここまで上手くやれたのに。こんなことで死なせてしまうなんて。
僕はユズを暖めてやることも忘れてただ呆然と横たわる布袋を見つめた。
男……そうだ。あの男は何者だったのか、何が目的だったのか、僕達はミサキさんのために調べる義務がある。
それが理不尽にも殺されてしまったミサキさんに出来る唯一の償いだ。
「ユズ、辛いかもしれないけど、思い出して。あの男はどっちに逃げたの?」
ユズはしゃくりあげながら涙をぬぐい「?」と気の抜けた声をあげた。
僕はいったん体を離し、顔を見ながらもう一度ユズに聞く。
「ミサキさんを担いでいった男」
ユズは泣きはらして赤くなった目をまんまるにして僕の顔を不思議そうに見た。
「見てない。ここに来た時もういなかった」
「じゃあなんで沼に飛び込んだの?」
「あれがあったから……」
そう言ってユズは濡れた布袋とコートを指さした。
僕の頭は混乱した。
あれはユズが沼から引き上げたものではなく元々あそこにあったらしい。
男の姿は無くて?
濡れた布袋とコートがあそこに?
「……おかしいよねえ」
僕は思わず声に出した。
ユズがまた不思議そうに見るものだから、僕の頭はどんどん落ち着きを取り戻した。
「布袋とコートが濡れているってことは布袋ごと沼に投げられたんだと思うんだけど、
じゃあ誰が布袋とコートをあそこに置いたの?わざわざこの冷たい沼に入って。
ミサキさんを放ってあの袋とコートだけ?やっぱりおかしいよ」
「ハル、どうしよう、凄くよく分からない」
ユズの頭から悲しみが抜け疑問であふれていくのが手に取るように分かった。
だから僕は自信を持ってこう言った。
「ミサキさんは誰かに助けられたんだよ」
ユズの涙が止まった。僕は沼を指差して説明を始めた。
「男が布袋ごと沼に落とす。誰かが発見する。布袋を陸へ上げる。布袋からミサキさんを出す。
ミサキさんの応急処置をする。体温を奪う衣服を脱がして水を拭き取る。どこか暖かい場所に連れて行く」
僕は街の方を指差した。
「ユズ、とりあえず温まろう。それから一軒一軒しらみつぶしにしていけばいいんだ」
それは途方もないことに思えたけれど、沼に沈んだ死体を捜すことと比べると全く苦にならない。
僕はユズを近くの民家に預けて聞き込みを開始した。
街の地図に目を通す。
体の冷えた人間を抱えてそう遠くは行かないだろうと沼の近くの一角を赤い線で囲み、
そこが街の中央より外れた場所にあることを心からありがたく思った。
ユズに言ったように、一軒一軒調べてもよかった。
けれど時間が経つにつれ行動範囲が広がってしまう。
僕はキリンの髪留めを握り締め立ち話をしている人達に声をかけた。
僕が前髪を髪留めでとめるとすぐに人が集まってきた。
それは僕の両目が単純に珍しいものだからかはたまた別の意味で珍しいからかは分からない。
今はそんなことどうでもいいことだ。
僕はエルと同様、とまではいかないけれど売人にとってはいい商品。
こうすることで情報も集まるし噂も広がる。
最悪ミサキさんと一緒にいる人が売人でも、ミサキさんを連れ去った売人も、きっと餌にくいついてくるだろう。
その前にミサキさん自身に届けばいいけれど。
そんなことを考えながら情報を求めていたら気の良さそうな女性が僕の頭を撫で、外した髪留めを僕の手に優しく握らせた。
僕の視界がいつもの通り狭まった。
「この髪留めと同じ石があしらわれた時計を見たわ。後ろに大輪の金細工がしてある時計。
その持ち主からおそらく貴方にあてた手紙をあずかっているの」
僕はその言葉に首をかしげた。
同じ石ということはキリン、なのだろうか。
キリンがこんなに早く追いつくのか、またなんでこんな街外れの民家に手紙を託すのか疑問はつきなかったけれど、
かくまわれるように家に案内される道すがら女性から得た情報でその予想はやはり間違いだと断定された。
女性が言うには、黒髪の長身で物静かな男性らしい。銀髪で小柄で口がよくまわるキリンとは正反対だ。
ただ、連れの女の子がミサキさんであるのは間違いなさそうだった。
「これです」
そう言って渡されたのはきっちりと蝋印された封筒と、ミサキさんの服についていた赤いリボンだった。
女性から差し出されたペーパーナイフで封を切り、目を疑うほどの奇麗な字に一度たじろいながらも内容を頭の中で読み上げた。
キリン君と同郷のサンファンと一緒に一度サムトを出てナダに向かいます。
こちらは大丈夫なので謁見を済ませて下さい。
ミサキ
ナダはサムトに隣接する小さな中立国だ。サムトほどではないが自由で情報が入りやすい。
サムトはリコルドの中で一番多く国境を持つ国なので身を隠し、見つかっても再度隠れやすい構造になっている。
キリンがなぜサムトを推したのか、今になって分かった。
どんなに旅をしたことがあっても、やはりサンファンにはかなわない。
この手紙を代筆したのも男性だろう。
リコルドにはおおまかにソンツで使われるソル語圏とシャハルで使われるフェガリ語圏がある。
もともとが二国の植民地や同盟国で構成されているため細かい語圏が一切ない。
多少その地域特有の言い回しやなまりなどはあるけれど、この二ヶ国語が使えればリコルドの中で困ることは無い。
なのにこの手紙は丁寧に僕らの村で使われる独特の字体でどこかが崩れることもなく書き上げている。
どこか機械的で、少し怖く思った。
キリンの髪留めを再度見る。キリンのシンボルのこの石と同じ石があしらわれた時計。
何かがどこか引っかかった。
「それはオリクトの屑石だよ」
「屑石?これが?」
サンファンの言葉にユズが驚きの声をあげる。
ガラス玉のような青い目に髪留めの石がきらきらと反射してとても屑石という言葉がついた石にはみえなかった。
「オリクトは多くの鉱山を所有しているからね。貴重な宝石に比べたらそれも屑になるのさ」
鉱山と聞いてユズがまた目を丸くする。
ユズは加工された石しか見たことがなかったから、奇麗な宝石と山とが結びつかないんだろう。
あれから僕は女性に深くお礼をして寝ているユズを迎えに行った。
外に出たら日が沈んでいて、何をするにも遅い時間になっていた。
謁見するにしてもナダに向かうにしても、行動出来るのは明日の昼からだ。
僕らはいそいで宿をとって、サンファンの集まる酒場へと足を運んだ。
「この石の装飾品は多く出回っているんですか?」
僕が尋ねるとサンファンは首を横にふった。
「この屑石は硬くて加工がしにくく、苦労して磨きあげても大して奇麗にならないんだ。
だから石としての価値よりも、燃料や宝石を研磨する機械に使われる。
キリンはそれを高い金出してホクラに作らせているから、個人のシンボルとして通じてるんだよ」
「それってなんか、いいですね」
ユズが顔をほころばせて言う。サンファンも得意げに笑ってみせた。
「それじゃあキリンの母国って…」
僕がおそるおそる聞くと、サンファンも意外だという様子でこう答えた。
「オリクトだよ。結構サンファンの間じゃ有名だけど、知らなかったんだ」
その事実に驚愕した。
混乱して何かを口に出そうとした時、後ろから両肩を叩かれ、僕は驚きのあまり体を縮こまらせた。
振り向くと、両手を出したままきょとんとしたキリンがそこに立っていた。
「ハルがそんなに驚くなんて意外だな。もしかして、僕のうわさしちゃったりなんかしてた?」
のんきな声で笑う。僕はどうしていいか分からずに困った顔でただ見ることしか出来なかった。
「キリン君!凄く早く来たねー!」
「僕はねえちゃんを連れてなかったからね。普通に近道してきたんだよ」
ユズに笑いかけながらそう言ったあと、キリンは何かに気付いたようにあたりをみまわした。
「あれ?ねえちゃんは?」
僕は今までのことを全てキリンに話すことにした。
「ふーん。僕と同郷のサンファン、ねえ…」
キリンは首飾りの大きなシンボルをくるくると回しながらつぶやいた。
やはり心当たりがないらしい。
オリクトは最近やっと独立した国だ。
高い金を出して屑石をシンボルにするような力のあるサンファンがそう何人もいるはずがない。
「僕もとうとう詐欺に利用されるようになっちゃったか〜。有名税ってやつ?」
キリンはそう言って仲間のサンファンと笑った。
「サンファンの中で心当たりとかない?」
僕が聞くとキリンは平然と「この人サンファンじゃないと思うよ」と言った。
「この手紙。おかしいほど奇麗。
確かに僕達サンファンは細かい地域の細かい言葉とか知ってるけど、
普通の言葉で通じるものをわざわざ相手に合わせるなんて正式な書類意外じゃやらないよ。
この人はどの程度通じるか分からなかったから全文こっちに合わせてきたんじゃない?
字、奇麗だし知識もあるみたいだし売人とかではないと思うよ。どっちかというとこれは…あれ?」
キリンが手紙の文を見つめたまま固まった。何か思い当たることがあったみたいだ。
「この人が持ってた金時計って、裏に菊の細工がしてあったって?」
「菊かどうかは分からないけど、大輪の花の細工はあったみたい」
「その人の特長とか聞いた?」
「黒髪で長身の、物静かな人」
それを聞いてキリンは手紙に頭をうずめて動かなくなった。
「いた。一人、そんな同郷のサンファンが、いたよ」
キリンの様子からするとあまり思い出したくなかったようだ。
手紙の中で一息つくと弱り顔で笑いかけてきた。
「研究のためにサンファンしてる人だから他の仲間にはあまり面識がないんだ。
でも大丈夫。にいちゃんがそばにいればねえちゃんは安全に僕らを待てると思う。
手紙の通り、明日は3人で謁見してから合流しよう。赤ん坊のエルのことも少し気になるし」
そう言って僕らは酒場をあとにして各々の宿に戻ることにした。
翌日、僕達は滞ることなく三人で謁見することが出来た。
何故かというと、ミサキさんの枠がひとつあまったからだった。
ユズはサンファンのところにミサキさんを預けるつもりだったようだけど、ミサキさんをひとりにするのはなんだか不安だったので昨日三人で手続きをおこなったのだ。
今は、ミサキさんの名前で、ミサキさんの着ていたコートを着たキリンが僕達の後ろにいる。
とても不思議だったけれど、ミサキさんがいるよりか、この世界にしっくりときた。
「ねえちゃんは別に珍しい風貌でもないのに纏う空気が違うよね。
そう思うとエルなんだなあって実感する」
そう言われてミサキさんの空気を初めて実感した。
意識しないと気付かない。だけど、キリンのように、あの男の恐らく雇い主であるように、分かる人には分かる。警戒心がどれだけ薄かったかを再認識させられ、僕は自分の軽率さを恥じた。これから会うであろう赤ん坊のエルも、この世界の赤ん坊とは違うのだろうか。
「本当は安心してるんじゃない?ハルはさ」
謁見室の重い扉の前で役人が説明しはじめた頃、キリンが耳元でそうささやいた。
真面目に話を聞いているユズにばれないよう眉をひそめる。キリンは話を続けた。
「ソンツ付近では見慣れない色素のユズリハを育てて、エルであるねえちゃんを保護して、オリクト出身の売人の僕を連れて。
ここだったら引け目を感じることなく自分の存在を確認できるもんね」
僕は凄い形相で睨んだのだと思う。キリンは凄く満足そうに微笑んだ。
「僕はそういうの凄くいいと思うんだ。傷や不満がなければ理想なんて生まれない。国もつくれない」
「リーリエは概念だ。必要なくなったらすぐに消える」
口早にそう答える。
キリンは何もかも見透かしたようにもう一度笑った。
「次の方どうぞ」
ユズリハを先頭に謁見室のドアをくぐる。すると呼ばれたように上から赤ん坊の泣き声が聞こえた。
いつもならそれを皮切りに交渉に入るキリンが一向に頭をあげない。
キリンはソンツと関係が深い。
その情報をもってシャハルやそれぞれの同盟国の間をうまく渡り歩いているようだが、
キリンがやりにくい相手は面倒事を極端に嫌う中立国なのだと頭の中で納得した。
「この度は私共の様な者に時間を割いて下さり深く感謝いたします」
そう前口上を述べ深々と頭を下げる。老いた王の言葉を待つ間も赤ん坊の泣き声は止むことがなかった。
「あの……」
ユズリハがたまらず声をあげる。王は赤ん坊のことについて触れるなと、その態度を持ってしてユズリハに伝えた。
再び空気が張り詰める。赤ん坊の泣き声が一層強くなった。
「あ、あのっ!」
今度は強く、ユズリハが声をあげた。
頭をあげ、王をまっすぐ見据える。
動転する僕とは反対にキリンはユズリハのことを品定めするかのように冷静に観察していた。
ユズリハは胸の前で手を硬く握り口を開けた。
「う、歌を、捧げてもよろしいでしょうか」
「歌を?」
王は意外な提案を聞いて少しだけ警戒をといた。
ユズリハは王の言葉にうなずき、言葉を続ける。
「私達の国では友好の証として歌を捧げる風習があります。
失礼だとは存じますが、どうか一曲捧げさせて下さい」
そう言って返事を待たずに軽く声が出るか確認し、大きく息をすいこんだ。
ユズリハがいつも羊達に歌っている歌だ。
歌詞もなにもなく、ただ心地よさと郷愁だけを織り込んだ世界でひとつだけの歌。
謁見室に歌が響き渡るとまもなく赤ん坊の泣き声がやんだ。
そういえば、ミサキさんを落ち着かせた時もこの歌を歌っていたとぼんやり思い出した。
ユズリハが静かに歌い終え、小さくお辞儀をすると王がゆっくりと、重い拍手をした。
「見事であった」
それからしばらく重い拍手は続いた。
ユズリハの声に、はからいに、心からそう思っているようだった。
「しかし」
そう言って王はユズリハを見たあとにキリンを鋭い目で見た。
「どうも分からぬ。お主達はどこの国の者なのだ」
横目でキリンを見ると、キリンは信じられないものを聴いたような顔をしていた。
「あの歌、公の場では歌わないほうがいいかもしれないね」
城門を抜け、大通りへ続く広い階段を一段下りたところでキリンがぽつりとそう言った。
ユズが不思議そうな顔で首をかしげた。
「誰に教わったの?」
キリンが静かに問いかけると、ユズは少し考えたあと、困ったように笑った。
「村の誰かが歌ってたのかな、気が付いたら歌えるようになってたの」
ユズがそう言うとキリンは納得がいったような素振りをしてみせた。
「じゃあ、サンファンが村の誰かに教えたのをユズちゃんが聴いたんだね。
あれって特定の地域の民謡で使われる音階を使用してるみたいだから、リーリエ名義の時はあんまり歌わないほうがいいよ」
「みんなそんなことまで分かるの?凄い」
「一般市民は分からない。王族の、それも一部の人だけ。
王族は教養があることを何よりのステータスにしたがるからね。さっきの王様も音楽が好きなんだろうね」
心の底から感動しているユズの様子をみて、キリンは少し困ったように微笑んだ。
ナダまでの馬車はキリンが軽く手配をしてくれた。
これからのことを考えて色々な物を買出しをし、サムトを出る頃には夕日が赤々とあたりを照らしていた。
馬車のおだやかな揺れと、暖かい空気が眠気を誘ったのだろう。僕の膝を枕にユズはすやすやと眠りについた。
ユズの髪をゆっくりと撫で、自分もうとうとしはじめた頃、向かい側に座っていたキリンが僕達を見ながら口を開いた。
「あの小さな村に住む前、君達はそうやって旅をしてきたんだね」
僕は黙ってキリンを見た。
「あの歌、少し分かりにくかったけど、シャハルの音階だった。君達は元々シャハルにいたの?」
僕は何も答えることが出来なかった。