私だけではない。誰一人としてキリン君の言っていることが理解出来なかった。

だけどキリン君は沈黙を荒い足取りで掻き消した。

皆が注目する中、キリン君は私の手首を荒く掴んで「来て」と短く言った。躊躇する私の答えを待たず無言で出口まで手を引いた。

キリン君の表情は見えない。


けれど緊張が手を通して伝わり、私は何故か泣きそうになった。





第三章 羊




「ここから離れて。すぐ!」  


私の両肩を信じられない強さで掴みキリン君は言った。怒鳴り声に近い強さに私は身をすくめた。
キリン君は動揺して何かを言おうとしたけれど、言葉に詰まり、うなだれるように肩に頭を乗せてきた。
震えを振り払うように何度も頭を擦り付け、小さくかすれた声で何かを呟いているようだった。


恐らく現状への疑問や、私への謝罪。私はたまらずキリン君を抱きしめた。


「…ごめん、そうだよね、ねえちゃん何もわかんないのに」


そう言うとキリン君はゆっくりと体を起こした。

顔はまだ青ざめていた。


「でもすぐここから離れなきゃいけないんだ。すぐソンツに見つかって幽閉される。
もう馬車は手配したから、早く」


「私、一人で?」


不安を押し殺してなんとか言葉を吐くも、涙がこみ上げてきてそれ以上話せなかった。
キリン君はそんな私を見てまた申し訳なさそうに顔をゆがめた。


「馬車を引くのは仲間の中でも信頼出来るサンファンだ。ねえちゃんを絶対守ってくれる。
僕達はリーリエとして囮にならなきゃいけない。ごめんね、でも、絶対、絶対迎えに行くから」


キリン君が絶対という言葉をこんなにも強く言うのは初めてだった。
私は改めて現状がどれだけ危険なのかを思い知らされた。



「私が一緒に行こう」



後ろから声がした。

振り返るとまだ動揺しているユズリハとハル君、それとシスイさんがいた。
キリン君はシスイさんの言葉にまた顔を歪めた。


「ソンツの情報に私はいない。私がリーリエを離れたところで暫くは気付かれないだろう」


「でも」


シスイさんはキリン君に深い群青の布袋を差し出した。


「お前の心配はこの中に入っている。ミサキが無事リーリエに戻るまで預ける」


そう言って布袋をキリン君の手に落とした。金属と金属が擦れたような音がした。


「どこへ向かえばいい」


シスイさんが尋ねると、キリン君は布袋を握り締めて少し落ち着きを取り戻した。


「ホクラ。首長に直接事情を話せば少しの間でも匿ってもらえるはず」


「分かった」


そう短く返事をして、シスイさんは私を馬車に乗せた。


「ミサキさん!これ!」


ユズリハが背伸びをして私の手に何かを乗せた。
見ると手のひらサイズの寄木細工の箱だった。


「私のお守りです。生まれてからずっと持っていたお守りです。
何が起こってるか全く分かりませんが、必ず迎えに行きます。だから持ってて下さい!」


私は箱を握り締めて何度もうなずいた。
シスイさんがカーテンを閉めると暗闇の中、馬車がゆっくりと動き始めた。





旅の途中、街では一歩も外に出ず、暗い馬車の中で息を潜めてやり過ごした。
シスイさんは私に気を使って街にいるほとんどの時間を馬車の中で過ごしてくれた。
私達が外に出られるのは国と国の境目、人気の無い広野だけだった。
大きく伸びをして息を吸うも確実に以前と違った。

空も、空気も、全て色が欠けたように見えた。


私の心情の変化からなのだろうか。

だとしても、ユズリハ達と見た景色はもう見られないのだと、どこかで悟った。


この馬車の旅は今までとなんら変わらない。

頼れる人がいて目的地があって、ある種の危険を孕んでいる。


そう、ソンツの女王が私を奪いに来る可能性はあの頃からあった。
けれど、捕まってもまた迎えにきてくれると心のどこかで思っていた。


キリン君が言っていた言葉。


「ソンツに幽閉される」


今度は取り返しのつかないことになると、あのキリン君が判断した。
サムトの消失、エルの死。
それは間違いなくソンツの謁見が絡んでいる。
あの強い光は、服従しないサムトを焼き払う為の何かだったんだろうか。


私は未だサムトが消えたことに実感がわかず考えもまとまらなかった。
そう、消えた、という言葉の意味するところがまるで分からなくて、不気味な印象を煽っていた。


「大丈夫か」


短い言葉でシスイさんが気遣ってくれる。
私はシスイさんを少し困った顔で見上げた。


「リコルドには国が一瞬で無くなる兵器があるの?」


シスイさんは目を伏せて少し考えてからこう口にした。


「私が知る現段階での兵器はソンツが所持する銃だけだ。
他国は火弓や槍、剣、時折地雷等も使用するが国一つが無くなる代物は聞いたことが無い。
消えたという言葉の意味するところが違っているのか、それか兵器の開発が進み、
それを手にしたソンツがサムトで実験したかのどちらか、だと思うが…」


そんな兵器を手にしたソンツがエルにそこまで執着するのだろうか。
恐らく私とシスイさんは同じ疑問で首をかしげた。


「いずれにせよホクラに行けば何かしら分かるだろう」


そう言ってシスイさんは私を馬車に戻るよう誘導した。


「リコルド唯一の兵器開発国。それがホクラだ」




私はその言葉に背筋が凍った。



神の庫と書いてホクラ。そんな言葉が浮かぶほど他の国とは何かが違っていた。
ホクラまでの道は背の高い針葉樹林で埋め尽くされ、その間も深い霧で覆われ、死の世界を進んでいるようだった。
それから徐々に霧が薄くなり、鉄と鉄がぶつかり合う音が響いてきた。



霧と煙と金属音で満たされた沈黙の国。
それがホクラの印象だった。


私が馬車から降りると外で作業をしていた数人の男性が目に入った。
存在の静かさに臆した私の様子を見て、男性は静かに笑いかけた。
ここは国も人も不思議な空気を纏っていると感じた。


入国の手続きが済むと一人の青年が霧の奥からこちらに歩いてくるのが見えた。
銀に近い薄茶色の髪と、ゆったりとした服装が印象的だった。
民族衣装が多いリコルドでは珍しくシンプルな、自国寄りの服だった。


「首長と話がしたい者がいると聞いて」


青年はそこまで言うと通常通り布を頭から被った私を見てその表情を変えた。
哀れみを含んだ表情だと私は感じた。

青年は私から目を逸らすように背を向けて「案内しよう」とだけ口にした。


今まで馬車を引いてくれたサンファンにお礼を言い、私達はただ黙々と霧の中を歩き続けた。
辺りを見回すとまだ夜でもないのにランタンの光がぼんやりと見える。
霧が深い日は一日中付けるのだと青年が教えてくれた。
私達は大小様々な工房を抜け、一つの小さな家に辿り着いた。
窓が一つ、ドアが一つという半円形の不思議な家だった。
青年が腰につけた皮の工具入れから銅で出来たドライバーの持ち手を取り出し、石の扉を二三回軽く叩く。
石と銅のぶつかる音が綺麗に響くと同時に青年が口を開いた。


「黎明です。客人をお招きしました」


少し間を置いて重い石の扉がゆっくりと開く。


「よくおいでになったね。女の子に長旅は辛かったろう」


そう言いながら家の主は私の顔を手で確かめた。
腰の曲がった大らかな白髭の老人には、眼球というものが無かった。

黎明が重い扉を閉めると、老人は器用にお茶を用意し、私達の来訪を歓迎してくれた。
私達はキリン君の言った通り、包み隠さず事情を説明した。


私がエルであること、赤ん坊のエルを救おうとしたこと、そのエルの死とサムトの消失。

老人はまぶたを閉じたまま頷きながら話を聞いてくれた。
黎明は老人の横に一人立ったままその話を聞いていた。


「そうか…エルが死んでしまったか…」


老人は赤ん坊の死を古くからの友人の死のように重く受け止め、老人のつぶやきを最後に暫く沈黙が続いた。


「昔はソンツもシャハルもそれはそれは小さな国だったんじゃよ」


老人の言葉に私達は顔を上げた。


「正確に言えば、このリコルドという世界の中では小さい、じゃがな。わしが生まれたのはエルをめぐる争いの最中でな。
エルによる神の裁きで進み過ぎた文明は滅びた。
未踏の地であったソンツやシャハル、それに挟まれた今の国々は大規模な争いをせず、
リコルドは平和になるはずだった」


「それはもう400年近く前の話になるはずでは」


シスイさんが驚いた様子で口を挟む。老人はシスイさんの言葉に頷いた。


「当時、未踏の地であった今のリコルドには文字が無かった。
エルの話は口伝で継がれ、文字が普及する頃までには脚色され御伽噺のようになっていた。
聖地サバハ等の遺跡に残っていた古文書…滅びたリコルドが残したエルの記録も研究があまり進まず、
エルの存在はますます架空の物になっていった」


「キリン君が首長を指名した理由って」


私が思わず口に出すと老人は顔をほころばせた。


「キリンはエルの研究が大好きだったからな。主人と訪れた際、エルの話を聞かせると本当に楽しそうにしていたよ。
独立後はよく古文書を持ってきては読み上げて単語の意味を尋ねてきてな」


「昔、エルの時代を生き抜き今のリコルドに流れ着いた遊牧民が、古文書を読み解く知恵を授けたという。
貴方はその遊牧民の一人で、全ての古文書が読めるのではありませんか」


シスイさんが問うと、老人は声を出して笑った。


「例えこの目が開いたとしてもわしには無理だ。
エルの時代を生きた遊牧民は文字という文化を持たなかったからの。
知恵を授けたのは王宮の奴隷として連れて行かれた者。
それも母音と子音の文字と発音を照らし合わせただけに過ぎない。
様々な時代の研究者達が文字を必死に読み、単語の意味を遊牧民に尋ねそれをまとめ、古文書を解読したものだが…
それも今ではわし一人になってしまった」


「貴方はカタフニア…なのですね」


シスイさんが神妙な面持ちでそう尋ねると老人は静かに頷いた。


四百年生きているという老人。私は似たような話を最近聞いた。
そう、リアマの長を説得する時に、ハル君の口から、だ。
老人の目が存在していたなら綺麗な鳶色と琥珀色をしていたのかもしれない。
けれどそれを聞く勇気は私にはなかった。


「エルが死に、サムトが無くなったとキリンが言ったのじゃな?」


突然話しが戻ったので私は驚いてシスイさんを見た。シスイさんも私を見て、静かに頷いた。
老人は深く溜息をついた。


「これは生涯口にせずに済むと思っていたが…いや、エルが再度呼ばれたからには避けられぬ事態だったのかもしれん」


そうこぼしてから老人は、はっきりとした口調でこう言った。


「サムトの消失はソンツが意図的に仕組んだことではない。恐らく、事故じゃ」


私達はその言葉に困惑した。
事故で国一つが消失するなんて、想像がつかなかった。


「大規模な戦乱の中、エルは神の火と呼ばれていた。戦争の象徴とされ時に崇められ時に忌まれ、戦乱はエルを中心に激化していった。
今よりも遥かに文明が栄えていたあの時代で、エルはどんな爆薬よりも確実に死をもたらす兵器だったのじゃ」


「エルが…兵器…?」


その事実に私は愚か、シスイさんすらも目を見開いた。


「エルは高い所から地上へ降り誕生する。そして役目を果たす時もまた同じ」


老人はそう言って細く長い指で上から下をなぞって見せた。


「恐らく…じゃが、ソンツが謁見することによりサムトに圧力が掛かった。
王は悩んだ末エルをソンツへ引き渡す決意をする。
そのことを知った塔の上の乳母がエルを抱いて逃げるも、追い詰められ」


そう言って老人は再度上から下をなぞった。


「ソンツやシャハルの教育がどういったものかは有名じゃからな。
乳母は未来に絶望し身を投げたんじゃろう」


「そ、その結果が、サムトの、消失…?」


私は途切れ途切れにそう呟くしかなかった。
老人は私の絶望を全て飲み込むように深く頷いた。


「エルの火に包まれた土地にはもう絶対に命は生まれん。サムトもじきに砂漠と化すだろう。
エルの事実を知っているものはわしただ一人。しかし推測で答えに辿りついている者はゼロでは無いじゃ。
それが大国の耳に入ればエルを奪い、使い、時に殺し、戦争は激化する」


私とシスイさんはただ黙るしかなかった。


「…キリン君は、エルが兵器だと知っていたんでしょうか」


声をしぼりだして聞くと、老人はうつむいて沈黙した。


「勘が良い子じゃからな。エルの歴史を追う内に疑問は持ったかもしれん。
しかしそれこそ御伽話だと笑って済ませたのじゃろう。

エルが兵器だと確信していれば、キリンは迷うことなくお前の首を切ったはずじゃからな」


あの時のキリン君を思い出して、涙があふれ出た。
ソンツで出会った頃だったら国のために私の首をためらいなく切っていただろう。
あの時も、その選択肢が頭を過ぎっていたのかもしれない。


あの時、どんな思いで私を見て、どんな思いで逃がしたのだろう。
そう思うと涙が止まらなかった。


シスイさんは何も言わず、肩に手を置いてくれた。


「強大で無力なお前さんを長く匿ってやりたい。しかし、このホクラにもじきにソンツの軍が来る。
後のことは黎明、お前がやりなさい」


老人がそう言って黎明を見上げると、黎明は浅く会釈をした。


「わしはただの老いぼれでな。ただの字引にしかならん。全ての決断はこの黎明に委ねられている」


その言葉に私達は黎明を見上げた。


ホクラの首長は、老人ではなく、この若い男だった。