第三話 目覚め



 私の名前は岬。岬 真子。
名前のような苗字からか私のことを真子と呼ぶ人はそんなにいなかった。
真子と一番呼ばれたのは小さい頃。私がまだ横山という苗字の時だ。


「もしかして……真澄、ちゃん?」


そう名前を呼ぶと、真澄ちゃんは困ったように笑った。
薄暗い中、世界が色付いたようだった。


「この年で、ちゃん付けされるとは、考えもしなかったな」


かすれた声で途切れ途切れで、声も変わっていたけれど、間違いなく私の知っている真澄ちゃんだった。
私はあふれる涙を隠そうと下を向いて、やせ細った真澄ちゃんの手をすがるように握った。
真澄ちゃんはその手を握り返してくれた。




私が小学校に上がる頃から両親の喧嘩は増えだした。
三年生になる頃には同じ家にいるのに顔を合わせなくなった。
両親の不仲は近所に知れ渡り、私は可哀想な横山さんの真子ちゃんになった。
だから、友達が帰った後も夜遅くまで公園にいる私を注意する人はいなかった。
だけど、ある冬の夜、危ないから帰れと私に言った人がいた。
それが引っ越してきたばかりの真澄ちゃんだった。


真澄ちゃんは私より二つ上で、春には小学校最高学年になるお兄さんという認識だった。
多分真澄ちゃんも、保護者のような感覚で私に接していたと思う。
どうせ近所から噂を流されるならと思って、自分の口から初めて人に事情を話した。
そしたら自分でも気付かなかった気持ちや不安が次々に口から漏れて、最後には雪の中、大泣きしていた。
真澄ちゃんは近くの自動販売機で暖かいココアを一つ買って一緒に飲もうと言ってくれた。
真澄ちゃんのマフラーを二人で傘代わりにして、ココアを二人で飲んだ。

私が落ち着いた頃を見計らって、真澄ちゃんは私に質問した。


「毎日この公園にいるのか?」


私は鼻をすすりながら小さくうなずいた。
真澄ちゃんは空になったココアの缶を見ながら小さくため息をついた。


「明日から俺も毎日ここにくる」


私はその言葉を社交辞令として受け取ってその場は別れた。



それから一年、真澄ちゃんは言葉通り雨の日も風の日も同じ時間に公園に来た。
雨の日はコンビニや塾のエントランスで雨宿りをして、風の日は誰もいない広場で寝転んで話をした。
真澄ちゃんは私が飽きないように縄跳び、トランプ、ボールに携帯ゲーム、雑誌等日替わりで色んな物を持ってきてくれた。
あの公園は真澄ちゃんと私の家になっていた。


真澄ちゃんが中学に進学してもそれは変わらなかった。
私には真澄ちゃんとの時間が全てで、公園の家があれば、本当の家で何が起きても乗り切れると思っていた。
けれど、小さな子供に乗り切れることなんて、本当に小さなことしかないのだと思い知らされる時がきた。
両親の離婚が決まり、私は母と逃げるように引っ越した。





「元気そうで良かった。お前のこと、ずっと気がかりだったんだ。お前、人見知りするし我慢するし、

また同じことになってるんじゃないかって」


そう言って真澄ちゃんはまた無防備に笑った。
私は真澄ちゃんが話しやすいように地面に横たわって話を聞いた。


「一応、いつもあの公園を散歩してたおばさんに住所と学校書いた手紙預けたんだけど、
奇跡でも起きない限り無理だわなって、心の中で諦めた。ごめんな」


真澄ちゃんはさびしそうに笑って、私の頭に手を置いた。
手を上げることすら体に響くだろうに、私のためだけに無理をして笑う。
変わらない優しさにまた涙がこみあげてきた。



私は真澄ちゃんに何も言えずに引っ越してしまった。
父に引越し先を知られてはまずいという理由であの町に近付くことすら許されなかった。
だけど、私はどうしても真澄ちゃんに住所を教えたくて、生活が落ち着いたある日、母の目を盗んであの町の、あの公園に行った。
真澄ちゃんが来てくれることをただ祈るしかなかった。
夜も遅くなり諦めて帰ろうとした時、隣の家のおばさんに偶然会った。


そして、真澄ちゃんが引っ越してしまったことを聞いた。


「隣のおばさんから聞いた。真澄ちゃん、引っ越すまでずっとあの公園に来てくれてたんだよね。
最後の最後まで、ごめんね、本当にありがとう」


私は真澄ちゃんの手を握りながらまた泣いた。








 ふと気付いたら、いつもの白い空間に立っていた。



狼の姿は、無い。
無音のこの場所で私は一人、立っている。


私は何も無い空間に向かっていつもの言葉を口にした。




「私は岬。岬、真子」



母子家庭で普通の高校生。私はさびしいけれど、思い出がある。今も、ある。



初めて狼に会った時、この空間は狼がさびしいから何も無いのだと私は言った。
けれど今は私一人。狼の姿は無い。


私は色を持っている。




じゃあ、どうしてこの空間は空っぽなんだろう。



私の疑問を反射するかのように光が辺りを駆け回り、そのまぶしさに私は目を閉じた。






目をゆっくり開けるとすぐそこに寝ている真澄ちゃんの顔があった。
私は泣きつかれて寝てしまったらしい。
真澄ちゃんは痛いだろうに鉄格子の隙間から出来る限り腕を伸ばして私を引き寄せていた。
半袖ワイシャツの真澄ちゃんの方が余程寒いだろうに、多分私が風邪を引かないよう湯たんぽ代わりになろうとしてくれたんだろう。
鉄格子に阻まれて寄り添うことは出来ず、余り意味の無い行動に見えたけれど、
真澄ちゃんの優しさと、側に人がいる温もりで十分暖かく感じた。


真澄ちゃんの寝顔を鉄格子越しに見る。
真澄ちゃんと会えた感動で忘れていたけれど、真澄ちゃんはホクラのエルで、この薄暗い牢獄に幽閉されている。
私がリコルドを旅していた間中ずっと一人でこの中にいたのだろうか。
そう考えると余りの辛さにまた涙がこみ上げてきた。


なんで私なんだろう。


なんで真澄ちゃんなんだろう。


エルの選定基準は何かあるのだろうか。
そんな疑問で頭がいっぱいだった。


私は出来るだけ体を動かさずに辺りを見回した。
いつの間にか扉は閉まり、黎明の姿は消えていた。
どの位寝ていたんだろう。
今は夜なのか朝なのか、私は何も分からないこの状況が急に不安になった。
そうこうしているうちに扉から金属のこすれる音が聞こえだした。
数回探るように鳴ると、鍵の外れる音が大きく響き、扉の方から光が差し込んだ。
そこに立っていたのは霧に髪を濡らした黎明だった。


「早朝に申し訳ないな」


そう言って確かな足取りでこちらに向かってきたかと思うと慣れた手つきで鉄格子の鍵を差し込み、扉を開放した。
まだ寝ている真澄ちゃんを肩から背負い、そのまま私の前で止まった。


「歩けるか?」


私は何がなんだか分からずにうなずいて立ち上がった。
体の痺れが抜けずによろけると、「つかまれ」と腕を差し出してくれた。


案内されたところは、ガラスケースに囲まれた理科の実験室のような場所だった。
黎明は真澄ちゃんを椅子に座らせ机にうつぶせにさせた。
私もそのまま隣に座り、まるで授業を受けるような雰囲気で黎明の行動を待った。
黒いテーブルに二人分の食べ物が静かに並べられた。


「ここは研究に使われている施設だ。人が何日も泊まれる作りにはなっている。
地下からは出してやれないが、この中は自由にして構わない。ケースの中に触れなければな」


黎明はそう言いながら私にフォークを差し出した。


「どうして……」


私がフォークを受け取りそう呟くと、黎明は寝ている真澄ちゃんに目をやった。


「今までも、これからも、俺は、ホクラの首長として、エルを道具としてしか見ることが出来ない。
だが、昨日のお前達を見て、家族を思い出したんだ」


「家族……」


「いつまでも物として見られたら良かったんだがな」


黎明は真澄ちゃんの頭の包帯を解いて傷を見た後、少し消毒をしてから新しい包帯を巻いた。
怪我をしてから毎日、こうして寝ている間に処置していたんだろう。
それを考えると、黎明は初めから真澄ちゃんを物として見ているようにはとても思えなかった。


「ホクラは、真澄ちゃんを、エルをどうするつもりなの?」


黎明は余った包帯をテーブルの上に置き、私と向き合った。


「どうするつもりもない」


私は意外な答えに目を見開いた。


「どうしたくもない……という方が正しいな。
使用したくない。譲渡したくない。

現状が維持出来るのなら一生幽閉する」


その言葉で血の気が引いた。

この無機質なガラスケースの中で、一生、この真澄ちゃんが。

考えるだけで目の前が真っ暗になった。


そんな私の様子を見て黎明が苦々しく笑った。


「一生幽閉の方が遥かにましだ。もうホクラにエルがいることはソンツに勘付かれている。
先日の訪問では上手くかわしたが、エルが兵器だと知った今、ソンツは全力でエルを奪おうとするだろう。
他国に奪われるなら、俺の手で殺す」


それがホクラとしての義務であるかのように黎明は言った。
そして私の目を見据え「お前の事も例外ではない」と言った。


「お前がリーリエを離れ、ソンツの手に渡れば真っ先にシャハルへ投げ込まれるだろう。
そうした時、ホクラはソンツを滅ぼさなければならない」


確かに、ソンツの独裁は見たくない。
恐らくシャハルを滅ぼした後、ホクラのエル、つまり真澄ちゃんを奪い恐怖によりリコルドを統一していくのだろう。
貧しい国が増え、飢餓により人口が減るのは目に見えている。


そこで私はふとおかしなことに気がついた。


そう、大国が一つ消えて何も損害が出ないわけ無い。
敵国同士不干渉だとしても隣国やサンファンの力で文化や物資は行き来しているはず。
キリン君が教えてくれたことだけれど、ただでさえ農業に適さない環境でありながら、
リコルドの端と端に位置しているシャハルとソンツの土は神の火の影響で四分の一程度死んでいるらしい。
自給しきれない分他国に依存するしかないのだけれど、肝心の他国は小さく散り散りになっている為、
図らずとも維持費、補助金を折半している形なのだそうだ。
つまり、シャハルが滅びると貴重な国土が死ぬ上、これまでシャハルに管理されてきた農業国が野放しになり負担が増える。
最大の中立国であるサムトが滅んだ今、ソンツとしてはシャハルを滅ぼすよりもエルを盾に組み敷いた方が得なのではないか。


「ソンツは本当にエルを使用するの?」


私がそう聞くと、黎明は間を置かずにうなずいた。


「必ず。そうしなければならない理由がある」


優雅であることを誇りとするソンツがなりふり構わずエルを手に入れなければならない理由。


黎明は顔を歪めてこう言った。




「四人目のエルはシャハルにいる」