*第五話 奇襲*






深い霧の中、赤ん坊の泣き声を聞いた。その声は小さく、遠く、狼の声を思い起こさせた。


「岬」


黎明の声で我に返る。いつの間にか私の足は止まっていたようだった。


「気を確かに持て。全てが駄目になるぞ」


それは叱咤ではなく現状での精一杯の励ましだった。


シャハルの王が婚姻の儀を執り行ったそうだ。
相手はシャハルに落ちたエル。
真澄ちゃんによると、私達と同じ高校生で、名前は飛鳥さんというらしい。
真澄ちゃんのお姉さんの教え子で、年に数回、勉強会で顔を合わせていたという。
戒律の厳しいシャハルでは、契りを交わした女性は他人の目に触れぬようヴェールを纏い、一日三度の礼拝以外で外出することは禁じられている。


要するに、飛鳥さんは婚姻の儀によりシャハルに縛られ、事実上軟禁されたということだった。


更に、エルが国と契りを交わすということは、他国の象徴として二度と役に立たないことを意味する。
他国に奪われれば、使用されるか殺されるかの二つしか道はない。

それはシャハルがいかに本気であるか見せ付けるものだった。


「約束通り、お前はリーリエに返還する。これからどうするかはリーリエ自身の問題になるだろう。
しかしこれだけは覚えておいて欲しい。お前が他国に奪われることはリコルドの消滅を意味する」


黎明は優しい。
リコルドのことを考えれば今ここで私を殺すべきなのに、この頼りない私に道を選択させてくれている。
私は気を引き締めて霧の中を進んでいった。









「ねえちゃん」


長老の家に辿りつくと、そこには私を待っていたキリン君とユズリハの姿があった。
キリン君は扉が開くと同時に立ち上がり、私を呼んだ。
それは無意識に行ったことのようで、キリン君はすぐに椅子に座りなおしたけれど、心の底から安堵した表情をしていた。
ユズリハは無言で私に駆け寄り、強く抱きしめた。


「じきにソンツの皇太后がこちらへ来る。早急にホクラから出てくれ」


黎明がうながすと、キリン君とシスイさんは何も言わずにうなずいた。


皇太后が直接来る。

それはユズリハ達の村を襲ったあの日のことを思い起こさせた。


「ホクラは…ホクラは大丈夫なの?」


私がそう聞くと黎明は冷静に頷いた。


「皮肉にも、戦争を回しているのはホクラの武器だ。ホクラの民が滅びるような真似はしないだろう」


滅びるような真似は。
そこが引っかかって私は素直に納得することが出来なかった。


リコルドでの最初の出来事を思い出してみる。
皇太后は、見せしめにハル君とユズリハを殺そうとした。
どんなに武器やエルを守っても、犠牲は出る。

それが分かっているキリン君は申し訳なさそうに目をそらした。
重い沈黙を破ったのはシスイさんの静かな声だった。


「ホクラで使用されている武器はなんだ」


突然のことに黎明は驚いたようだった。
意図を汲めないまま回答を探しているのが見てとれた。


「現在ソンツに譲渡した銃以外の物なら大抵使用されている。
ただ、ホクラの民は非力ゆえにボウガンを好んでいる」


「そうか」


答えを聞くと、シスイさんは手を口に当て何かを考えているようだった。


「皇太后は牽制のため6名からなる戦銃分隊を表に出し、10名からなる槍騎兵分隊を後ろに控えさせるはずだ。
そして街の入口と出口それぞれに剣兵を五名ずつ配置する。
戦銃分隊は銃に特化した者を集めているとはいえ扱いが非情に難しく至近距離からでないとまず当たらない。
恐らく、乱発して市民を見せしめに殺す姦計だろう。
あらかじめ市民を避難させ、森へ誘い込めば力はだいぶそがれる筈だ」


その場にいる全員が息を呑んだ。
予想にしては具体的過ぎる数字だ。
いくらシスイさんがサンファンとはいえ、ここまで詳しく知っていていいのだろうか。


私は答えを求めるようにキリン君の方を見た。
キリン君は真剣な顔をして頷いた。


「僕も兄ちゃんと同じ考えだよ。
それに加えて、このままここにいればホクラのエルを隠し通すため、ホクラを守るため、
黎明がミサキをソンツに差し出しても文句は言えない。
ソンツがエルを持てばリコルド崩壊へのカウントダウンが始まる。
僕達はソンツがエルを所持しないよう早く逃げた方がいい」


私達は見逃してくれる黎明に深く頭を下げて首長の家を後にした。






深い霧の中息を殺して走る。
先頭はランタンとコンパスを持つキリン君、最後尾にはシスイさんがついてくれた。
出入口は使用せず、コンパスと地図を頼りに霧と森に身を潜めホクラを出るという計画だ。
相変わらず前も後ろもはっきりしなかったけれど、手を握ってくれているユズリハの暖かさが印象的だった。


「ユキホは…ソンツ女王はどうしている?」


シスイさんがそう聞くとキリン君は心配ないと答えた。


「ユキホはソンツの代表としてシャハルの婚姻の儀に参加してる。
シャハルの婚姻は一週間ほどかかるし、その間ソンツの兵はユキホを警護するためほとんど出払ってるから兄ちゃんが予想した兵の数以上には多分来ないと思う。
いうなれば、ユキホをおとりにホクラを攻めに来た。そんな感じ」


婚姻の儀によってシャハルの王もユキホも動けない。
それをいいことに皇太后は武器の売買という名目でホクラを訪れるのだという。
恐らく、難癖をつけてエルの居場所を探る気だ。


「きっとエルとの婚儀を正式に見せ付けられた腹いせも含まれているだろうね」


キリン君がそういうと、シスイさんが珍しく苦笑して「間違いない」と呟いた。
少しだけ場が和む。皇太后の行動を見てきた私にもキリン君の推測は納得出来た。


「気になるのはシャハルの動向だ。こんな表立った行動、シャハルらしくない」


エルとの婚儀を他国に知らしめること。それはシャハルが戦争に乗り出すということだ。


確かに、サムトの消滅を受け、エルの危険性を知った今、エルを自国の物にすることは自然な流れだ。
けれど、ソンツがエルを所持していない状態でそんなことをすればソンツが躍起になって動くことは目に見えている。
ホクラのように切り札として隠し持っている方がよほど利口ではないのか。

シャハルは確かに色々な国から恨みを買ってはいるが、シャハルそのものが消えれば属国もただではすまない構造になっている。
シャハルにエルを投げ込む国は、大国ソンツをおいて他にはない。
キリン君の話によると、ソンツもシャハル自体を消滅させようという気はなく、
シャハルがエルを所持した時に抑止になるように確保したいという考えらしい。


問題は、黎明の話の通り、シャハルがエルを使用する可能性があるということ。
シャハルの動きを見てソンツがエルを使用してしまうこと。


それもどこか引っかかった。


今までソンツの抑止として働いてきたシャハルが、何故そこまで攻撃的な行動をほのめかすのか。
そうせざるをえない何かがあるのか。


「ソンツ以上に、シャハルの内部が危ういのかもしれないな」


キリン君がぽつりと呟くと再び沈黙が訪れた。





息を殺して森を進む。
私は見誤っていたのかもしれない。
敵の敵は味方。そんな錯覚があって、ソンツさえどうにかすればリコルドは丸く収まるとどこかでずっと思っていた。
だけど、本当にどうにかしなければならないのはむしろシャハルなのかもしれない。
そんなことを考えながら進んでいると、あたりが明るくなってきたのが分かった。


日の光が届く場所にようやく辿りついたのだ。
遠くからは薄く花火が上がっているのが見えた。


「ソンツが狼煙を上げたみたいだね」


キリン君は音だけに耳を貸し地図を見ながら呟いた。


シスイさんが後ろを振り返ると、驚いた様子で足を止めた。


「違う、あれはシャハルの物だ」


それと同時に、弓矢が私の鼻先を掠めて行った。