*第六話 シスイ*




私は悲鳴をあげることもなくその場に座り込んでしまった。
キリン君が駆け寄り、シスイさんがすぐ近くの木に刺さった矢を抜き取る。
矢はシンプルで細身で、普通のものより短いものだった。
やじりを見ると荒く削った黒曜石がついていた。


「木の陰に隠れながら相手に予測されないよう進むしかない。止まっていたら的になるだけだ。
キリン、先頭を変わってくれ」


キリン君が素直にランタンと地図を渡す。
シスイさんは私が歩けることを確認すると、身に着けていた布を二重にし、頭から私を包んだ。


「怯えることはない。この矢は先端に毒を塗ることで相手の足を止めるだけのもの。当たったところで死にはしない。行こう」


シスイさんに促されるまま私達は走り出した。


「兄ちゃん、さっきの狼煙、シャハルの物だったんだよね。この奇襲もシャハル?」


キリン君が口早に問うと、シスイさんは前を向いたまま首を横に振った。


「これはソンツの特殊分隊だ。この矢が使用される時は標的の生体捕獲を目的としている」


生体捕獲。
つまり標的は私だ。


「毒は?」


「ペガヌム・ハルマラの種子。幻覚作用を起こす」


それを聞くとキリン君は心の底から苦笑したようだった。


「相手はこの霧でこちらの姿が見えていない。森から燻りだす為の行動だ。
この付近の出口で残りの部隊が待機しているだろう。一度戻り身を隠して他の出口を探した方が良い」


「待って。それは危険すぎる」


キリン君が止める。
シスイさんは壁になるような場所を探し、私達をそこへ誘導した。
足を止めた途端、霧が体中にまとわりついて立っていられなくなった。
霧が急速に体温を奪っていく。
気がつくと、森へ入った時よりも気温が下がっている気がした。


「日が暮れると外が分からなくなる。霧は深くなるしホクラのこの森で一晩過ごすのは不可能だ。
外の光を見失わない場所まで行って出口を探した方がいい」


シスイさんが懐中時計を取り出す。時計の針は2時を示していた。


「キリン、手元に武器はあるか」


そう言われてキリン君は荷物を確認した。


「僕の愛用ダガーと果物ナイフ、それにユズリハが持ってる鋼の棒かな。
一応威嚇用の癇癪球と麻酔薬くらいならあるけど」


シスイさんはキリン君のダガーを手に取り重さを確かめて、羽織っている布の一部を切り麻酔薬を刃に塗った。
あまりにも手馴れていて、シスイさんがサンファンであることを忘れさせるほどだった。


「これと、癇癪球も借りる。光が見えるところまでこのまま進み、姿を隠せるところでお前達にランタンを託す。
私がおとりになり、待機している兵を片付けている。もし何かあったらキリン、これを使ってくれ」


キリン君に渡されたのは小型の銃だった。
リコルドにおいての最新の兵器は猟銃のような大きな物だけだったはず。
キリン君はその大きさと釣り合わない重さに言葉を失っていた。


「安心しろ、麻酔銃だ。人を殺すものではない」


銃の存在に戸惑いを隠せない私達の様子をユズリハは不思議そうに見ていた。
そうだ、ユズリハはこれがどういうことなのか分からない。
ただ、私達の様子を見て非常であることだけを感じ取るしかない。
ユズリハの目は銃よりもシスイさんが持っているダガーを捕らえていた。


「シスイさんは…?片付けるって、一人で行くんですか?」


シスイさんは軽く頷いた。


「相手の出方は検討がついている。勝算はある。お前はミサキを守ってくれ」


近くの木に矢が刺さる。
私達はシスイさんに誘導されるまま、大回りをして再び外を目指した。
走っている間にもシスイさんが持つ麻酔銃の意味を考えてしまう。
気がつくと私はシスイさんの服を握り締めていた。


「シスイさんは、遠くに行ったりしないよね」


私がそう言うと、シスイさんは何も言わず私の頭に手をのせた。





外の光が届く場所につくと、シスイさんはランタンをキリン君に託し、霧の中に消えていった。
しばらくすると、矢の数が徐々に減り、しまいには一つも届かなくなっていた。


「もう終わったってこと…?」


私がつぶやくとキリン君が首を横に振った。


「兄ちゃんがうまいこと外へ誘導してくれてるんだ。僕達も外に出られるよう少しずつ移動しようか」


私とユズリハは頷いてキリン君についていこうとした。
その時、後ろから首を思い切り掴まれ、私はバランスを崩した。
悲鳴を上げる間もなくナイフを振りかざされる。
もう駄目だと思い身を縮こまらせると、ユズリハが鉄の棒でナイフをはじいてくれた。
相手は間合いをとって咳き込む。私達がそれに気をとられるとまたナイフを振りかざしてきた。
ユズリハがかばってくれているが、標的は間違いなく私だった。


「やめてください!ミサキさんは渡しません!」


それを合図にキリン君がユズリハの後ろからランタンを相手に突きつける。
相手が怯んだと同時に私の手を引いて走り出した。


キリン君がランタンをかざした時に相手の姿が一瞬だけ見えた。
あれは、ソンツの人間ではない。
キリン君もそれに気付いてか、走りながらも何か考えているようだった。
空いた手で首をさすると、ぬるっとした。手を見てみると、血がこびりついていた。


「ミサキさん!逃げて!」


ユズリハの悲鳴に近い声で振り向くと、すぐ後ろであの男がナイフを振りかざしていた。


「ミサキ!」


キリン君がとっさに私の肩を引きランタンを盾にする。
ランタンとナイフが同時に落ち、あたりに火が燃え広がった。
男はキリン君を強く蹴り上げるとそのままユズリハの方へ投げ、私に飛び掛ってきた。
二人で火の中に倒れこみ、立とうとしたところで首を絞められる。
腕を掴み、必死に振りほどこうとするもびくともしない。
それは男の腕力ではなく、鋭い鷹のような力だった。この男は私を確実に殺そうとしている。
そう確信しながらも抵抗出来なくて、悪あがきに相手の手を掴んだ。
すると、黒い手袋からじわりと何かが絞られ、私の手に付着した。
掠れた視界で手先を見ると、赤い液体がこびりついていた。
男はそれを見られ、酷く動揺した。


一度手を緩めたかと思うと、短く息を吸い、そのまま背中を丸めて咳き込んだ。
私の顔に赤い粒が降ってくる。それは布で隠した彼の口元から落ちてくるようだった。
首をさすった時についた血。
あれは私ではなくこの男のものだったのだ。


「あなた…体が悪いの?」


私がそう聞くと、男は金属のような赤い瞳を大きく見開いた。


次の瞬間、短い矢が数本近くに刺さった。
男は短く舌打ちをすると、あっさりと私を離し、矢が来た方向へ駆け出してしまった。


「ねえちゃん大丈夫!?」


キリン君が駆け寄って私の顔と首を布でぬぐう。キリン君の口の端に血を擦ったような跡が残っていた。
私がその跡を気にしていると、キリン君は改めて布で口をぬぐった。


「大丈夫、これはただ口の中が切れただけ。このあたりの火も霧でこれ以上は広がらない」


あたりを見渡すと、火はさっきよりも小さくなっていた。


「あんなに速い人初めてみました…全然追いつけなかった…」


ユズリハが立ったまま呟くと、キリン君は男が落としたナイフを拾い上げて柄の紋章を見て軽くため息をついた。


「それはそうだよ。あれはシャハルの人間だ。体の構造から違う」


私は黎明の言っていたことを思い出す。
ソンツが嫉妬し、兵器開発に力を入れてしまうほどの身体能力。
あれほど怪我をし、咳き込んでいた細身の彼でも、ユズリハを振り払い、キリン君を軽く蹴り上げ、
私の首にはっきりとアザをつけた。

そんな人間の集まりがシャハルという国なのだ。
キリン君はナイフを一振りし、土をはらうと私に立つように促した。


「ランタンを失った以上、外に出るしかない。兄ちゃんも気になるし、進もう」


そうだ。あの男が向かった先にはシスイさんもいるはずだ。
ソンツの兵とあの男に襲われたらひとたまりもない。
私はそう思いながらも男が見せた一瞬の揺らぎを忘れることが出来なかった。




外と森の境界線に身を潜めて様子を伺うと、そこには横たわるソンツの兵達と、
まるで共闘していたかのように並ぶあの男とシスイさんの姿があった。
あの男の手にはシスイさんが持っていた、ユズリハと同じ構造の鋼の棒が握られている。
二人は私達から見えない何かと対峙しているようだった。
私達はわけが分からずただそれを見守る。
少しして、その場に似つかわしくない少女の声があたりに響いた。


「シャハルの王にリーリエ…そうですか。それが貴方の答えですか」


その話し方は皇太后にそっくりだったが、怒りに声が震えていて、今にも泣いてしまいそうに聞こえた。


今シャハルにいるはずの現ソンツ女王。ユキホだ。
そしてシスイさんの隣にいる男は、シャハルに一番いなければならない王だという。
いつもなんでも知っているあのキリン君ですら、驚きを隠せていなかった。
あの華奢で手負いで病んでいてたった一人で私を殺しに来たあの男が、シャハルの、王。
その場にいる誰もが押し黙る中、剣を構える金属音が響いた。


「構いません。あの男を殺しなさい。シャハルの王は今婚儀の最中。ここにいる男はただの蛮族です」


ユキホの言葉を合図にソンツの剣兵が男に斬りかかった。
男は深く踏み込み、一気に距離をつめると、ソンツの兵が剣を振る隙も与えず次々と頭を叩き割っていった。
息もつかず、そのままユキホのところまで行き、長い棒を振りかぶる。
私達がそれが見える場所まで移動すると、
かろうじて残っていた二人の剣兵に守られながらも近距離で対峙する男とユキホの姿が見えた。


「お前の言葉を借りるなら、今ここにいるのはただの小娘だ。蛮族にやられたところでなんの問題もない」


男は獲物を追い詰める豹のようにじわりとユキホを追い詰めていく。
力なき者を力で服従させることに充足を得ているような声色だ。


ユキホの言葉を待たず、長い棒を振り、男は二人の剣兵の首の骨を折った。
これでユキホを守る者はいなくなってしまった。
男は棒についた血を一振りで払う。
それはユキホと改めて対峙する準備だった。


「お前も王族に生まれたことを呪うんだな」


そう言うと男は一気に棒を振りかぶった。


「守りなさいケイセツ!!!」


ユキホが悲鳴に近い声でそう叫ぶと、凄い金属音があたりに鳴り響いた。
男の棒が転がり落ちる。
ユキホの前にたたずんでいたのは、ナイフを構えたシスイさんだった。


ユキホは自分で命令しておきながら酷く驚いた顔をしたが、
シスイさんの背中に顔をうずめて服を力いっぱい握った。


「そうです…そうですケイセツ。貴方は私を守る為だけに存在していればいいのです」


泣きながら放たれたその言葉を受け止めるようにシスイさんは軽く息をついた。


「シャハルの王、婚儀に戻ってはくれないか。どちらが死んでも利益になることなどないはずだ」


男は警戒を解いてシスイさんと向き合った。
男には、シスイさんが何者であるか分かっているようだった。


「一つ条件がある」


シスイさんがうなずく。男はそのまま話を続けた。


「リーリエのエルをソンツが放棄することだ。
私の目的はソンツがエルを所持しないようエルを殺すこと、もしくはソンツの兵を全滅させることにある。
女王自らこの場にくることは想定外だった。ソンツが手を引けば私も手を引こう」


シスイさんが背中のユキホの様子を伺うと、ユキホは何事もなかったかのようにシスイさんの前に出た。


「本来ならのめる条件ではありませんが、承諾しましょう。
ケイセツ。私をシャハルまで連れて行きなさい。それと、その趣味の悪い格好もやめなさい。
サンファンが同行していると思われては恥もいいところだわ」


シスイさんは少し森の方を見て、ため息をついて軽い布を外していった。
私はわけが分からずキリン君の方を向くと、その横からユズリハが飛び出していってしまった。


「シスイさん!」


ユズリハが泣きそうな顔で呼び止める。
シスイさんは振り返ってユズリハを見下ろした。


「すまない」


一言そう言うと、シスイさんは手に持っていた軽い布をユズリハに渡し、
その上にシンボルとして使用してきた懐中時計を置いた。


「預かっておいてくれ」


ユズリハは懸命に涙をこらえる。


伝えたいことは沢山あるのに、涙で声がうまく出せないようだった。


そんな様子を見てシスイさんはうなだれるユズリハの頭を優しく撫でる。
ユズリハの目から大粒の涙がこぼれた。


「もう一度会いに行く。必ず。それまでリーリエを頼む」


その言葉を最後に、シスイさんは二国の王と共に姿を消した。